6.平成時代幕あけ(平成期初頭)
昭和天皇の崩御があり、昭和64年(1989)1月8日から平成に改元された。時代が変わっても日米貿易摩擦問題やら消費税導入などで産業界全体にとって不安感の多い時であった。
日本経済は同63年(1988)より起こったバブル景気で地価の高騰、株価の上昇が続き国民の所得も一挙に増収となり、消費景気も旺盛となって、高い商品ほどよく売れるという高級化志向の時期であった。特に自動車、弱電、ハイテク関係が国内外において好調に推移し、対外貿易収支で黒字が大幅な増加を持続するなど、日本経済の行き過ぎが世界各国を震えあがらせ、非難の的となった。この景気は平成元年まで続き、同年12月末の株価相場ダウ平均38,000円の高値をつけるなど、まさにバブル経済であった。同2年(1990)秋に入り、このバブル景気も翳りをみせ始め、日を追うごとに株価は下降し、土地の売れ行きも止まり、次第に景気の後退が始まった。
●製革量の横ばいと輸出革の激減
一方、皮革業界の動向は昭和60年(1985)以降それほどの変化はなく、成牛皮輸入数量でみると、同60年から同63年にかけては年間750万枚前後で推移し、国産原皮とウェットブルーを含めた全消費量は950万枚前後で経過した。平成元年は成牛皮の全消費量は900万枚を切ったが、同2年には好景気を反映して1,000万枚を超えた。しかし、この秋より不況感が漂い始め、タンナーや流通における在庫が増大し、苦労する時期が到来した。
即ち、バブル経済の崩壊で一般企業の収益は雪崩を打つように下降し始めたが、皮革業界はまだしも良かった方で、下降もゆるやかなものであった。しかし同5年(1993)頃から革のソフト調ブームも次第に下降に入り、またバック用革などが僅かに好調な程度で、銀付革は次第に停滞に入った。バブル景気の折は良い生地のものが順調に消化されたが、B、C級の生地の処理に苦慮した時期であった。ワニ、トカゲ等の爬虫類模様の型押し革が大変よく売れたが、それも本物に近い高度な技術力を要求された。その技術力のないタンナーはB、C級の在庫が増え、悩みの種であった。
国内市場の製品の動きとしては、靴、袋物とも依然としてカジュアル志向が続いた。
また、革の輸出額については円高と途上国等の進出がが影響し、昭和59年の688億円をピークにしてその後は低下し、同61年に激減、同63年は400億円を下回り、年々低下して平成2年には373億円となった。具体的に言えば、昭和61年(1986)以降円高による影響で年毎に減少する傾向の中にあって、全国で唯一多量の輸出を誇っていた川西地区でさえ、平成2年は前年の59.4%から27.4%(数量比)に落ち込み、龍野地区も前年と同じ2.3%の輸出割合を残しているだけで、各地区とも殆んど国内向けであった(TCJ実態調査)。
一方、わが国の革製品の消費市場は、安価な海外製品の洪水のような流入により一挙に拡大した。消費面積でいえば昭和63年に72億デシ、平成元年と2年は89億デシ(いずれも推定)と急成長したが、その消費市場の拡大はむしろ逆に日本のタンナーに厳しい影響をもたらせた。
●消費税の実施
昭和63年12月の税制改革により消費税の導入が決まり、平成元年(1989)4月1日より実施された。
これにより皮革業界も原皮、工業薬品の仕入れから製品革の販売に至るまで、人件費を除いてすべての取引に消費税3%が課税されることになった。業界あげて、その対応に努力した。
●へい獣処理場等に関する法律の改正
これまでの法律は昭和23年(1948)法律第140号「へい獣処理場等に関する法律」で、タンナーの工場(化製場)はへい獣処理場の一つであると定められていた。
皮革の生産工場は企業規模に比べて巨額の投資設備を行い、人びとの生活に欠かせない靴、バック、かばん、衣料等になる皮革素材を製造する化製場であって、死んだ牛馬の処理場とは区分されるべきものであるし、さらに「へい獣」という表現そのものが明治時代から使われてきた旧時代のものであるとの見解から、(社)日本タンナーズ協会及び関連の方々が政府に陳情運動を繰り返し、苦労の結果、平成元年(1989)12月19日、40年間続いた「へい獣処理場等に関する法律」の改正がようやく行われ、同2年5月1日「化製場等に関する法律」として施行された