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約7割のシェアを誇る「成牛革」の生産量 兵庫県における製革業の歴史はきわめて古く、弥生時代後期に大陸から帰化人が鞣製技術を伝え、その基礎を築いたとみられています。その後、江戸時代中期に全国的な商品経済の発達と姫路藩の重商政策のもとに大きく発展しました。

兵庫県皮革産業の歩み

(3)戦後の皮革産業 昭和30年頃まで

1.新しい時代の始まり─終戦時の混乱

昭和20年(1945)8月15日、玉音放送をもって日本は降伏した。太平洋戦争に入ってから4年近く、満州事変から数えれば15年に及ぶ長かった戦争の時代が終った。敗戦という厳粛なる現実に、国全体が虚脱状態というか、精神面でも一種の空白状態が生じた様な世相の状況であった。

東京、大阪などの大都市は空襲で焼かれ、姫路市も空襲を受け、日本国中で大被害を蒙り、都会の人々は近親者を頼りに田舎に疎開した。また農家も生産する米麦による物々交換で生活物資を入手するという有り様で、あらゆる物資が欠乏していた。日々の生活に困窮する時代でもあった。衣食住のすべてが不足する混乱・混迷の時代が始まった。

わが国の諸産業の、戦後の復興を難しいものとした諸条件は、いうまでもなく工場設備そのものの罹災(りさい)のほか、軍需から民需への転換の難しさや、海外との貿易統制による原料資材の入手難、悪性インフレ昴進など数々をあげることができる。 特に皮革業については、製革原料である原皮が不足した。ことに海外牛原皮の輸入が止まってしまったことが、革生産の復旧を阻害した直接的な原因とみて間違いない。

GHQ(連合軍総指令部)は「ヤミ靴がなくならない限り原皮の輸入は許可しない」という方針であり、業界は反対に「靴材料が出回ればヤミ靴は自然に姿を消す」と主張したが、言い分は通らず皮革の生産再開の見込みはたたなかった。

終戦から2週間ほど過ぎた9月2日、GHQ指令第一号の「軍需品生産停止命令」によって、多くの皮革工場は1か月ほど操業停止となった。9月26日「軍需品処分命令」、ついで9月28日の繊維・金属・トラック・皮革などの「軍需資材の民需使用許可指令」によって、皮革工業は、新たに民需産業あるいは平和産業として再出発することになった。

しかしながら極端な原料不足が続くなかで、いざ民需産業への転換といっても、その前途はむしろ暗いものであった。

わが国の皮革工業は、その成立時から海外依存度が高く、国内の原皮生産量は牛・馬・豚・羊皮を総計しても、国内需要量の2分の1にも足りず、その大半を海外からの輸入に待たなければならなかった。前述の通り、戦後はGHQの方針によって、原皮の輸入は不許可となっていたので、皮革生産は全く終戦時の低水準に停滞するのを余儀なくされたのである。

日本の対外貿易も、戦後はまた周知のようにGHQ当局の全面的な監督と管理の下におかれ、経済復興に絶対的に不足する物資の補充という、せまい限度内でほそぼそと開始されてきた。そして、政府の貿易取扱い機関としては、貿易庁が同20年末に設置され、毎年および第四半期ごとに輸出入計画を策定し、個々の取引についてはGHQの承諾と指令を受ける形式が採られていた。

皮革業界は、こうした貿易が再開されるや、直ちに1万トンの牛皮・羊皮の輸入を申請したが、これに対してGHQ当局は、食糧・綿花等緊急重要物資に限定し、皮革原料については、国内原皮と戦時中から蓄積された相当量の在庫をもって配分すべきである、との方針を明らかにした。

このために、同21年以後当分の間皮革業はもっぱら国内産原皮と、若干の手持品にその限界を画されることになったのである。

そのうえ内地の原皮生産も、戦時および戦後の物資欠乏時代における無計画なと殺によって、牛・馬等の家畜の絶対量が減少しており、21年の生産高は3年以前の同18年の数量の62.6%に低下していた。したがって、その数字に輸入高を加算した総供給高では、同18当時年の僅か21.2%にすぎなかったのである。別表の統計には、ヤミ値販売のために行われた密殺頭数が除外されているので、実際の生産数量は下の数字を若干上回るものと推定されるが、それにしても需給の異常ともいえる不均衡な状態を知ることができる。

原皮供給高推移 (トン)
年次 国内原皮 輸入量 合計
生産高
昭和 5 10,699 17,700 28,399
9-11 13,787 34,530 48,319
18 9,959 19,504 20,463
21 6,233 - 6,333
 

こうした原料皮の極度の不足した情勢下にあって、同21年の生産高は公定価格実績で7,400トン、翌22年は7,230トンと破滅的な低下を示した。

 

しかも他方、戦時中の企業整備の過程で減少した企業者数は戦後急増していたので、「業界操業度は極端に低下し、工場はすべて半休状態」(昭和23年編皮革年鑑)という有り様であった。
事実、別表の生産高は全国製革工場の設備能力からすれば、僅か20%程度の稼働率にしか当たらないものであった。

 

第一次製品としての革生産の低下に伴って、工業用革、靴などの革製品の生産回復も抑制されたことはいうまでもない。ベルト、パッキング、ピッカー等工業用諸革は、わが国産業再建の不可欠な要点ともいわれ、22年度の最低需要量は、7,340トンと計上されたが、実際に充足されたものは、全需要量の15%に足りぬものであった。

 

GHQの政策は、このような皮革生産の危機に対処するのに、専や統制の強化をもって革の配給秩序の確立、不急皮革製品の製造禁止、皮革の横流れの取締強化などの一連の行政措置によって消費規制の強化の方策をとったため、皮革業、製品業は一段と苦しい状況に追い込まれた。
戦後の皮革業に対する統制は、原革、革の需給はもとより、副資材の植物タンニン及び各種薬品にいたるまで、すでに存在していた配給統制に基づいて実施されていた。

 

そのために、生産と極度の低下と異常に膨張した一般の購買力によって、ヤミ値の高騰は同21年春頃から早くも破局的に進行しつつあり、いわゆる統制ルートにようる原料の入手、あるいは公定価格による資材の購買は、事実上殆んど不可能な状態となるにいたった。

 

このようにして、戦後から同22年頃まで皮革産業は、生産面においても配給面においても、実質的には無秩序と混乱の時代でもあったといってよい。

 

同21年(1946)秋になると、戦後しばらく生産の上昇を支えた戦時における資材ストックは食いつぶされようとしていた。一方、産業活動の基幹であるべき電力・石炭等の動力部分や鉄鋼生産が低迷を続け、同22年から鉄と石炭の超重点的増産を中心とする傾斜生産方式が実施されることになった。皮革業についても、同22年4月から上の生産方式の一環として、重要生産資材の用途別需給計画および生産工場への数量割当が実施され、同22年度は第四半期に約3,000トンの需給計画が立てられた。従って、年間の供給量は12,000トンであるが、この数量は国内需要を最低に見積もってもその半ばにも足りず、しかも国内生産見込高のほかに、必ずしも数量的に期待し得ない放出皮革をも含むものであった。

 

新しい生産統制方式として採用された「切符割当(クーポン)制」は、極度の製品不足に加えて設定された統制価格が低すぎたので、切符による現物化は実際には出来なくて、崩壊に瀕するにいたったのである。

 

業界はこうした原料供給の逼迫を打開すべく、皮革関係団体によって組織する皮革懇談会がGHQの原皮輸入許可を懇請し、最低海外輸入量を13,936トンと定め、この数量が確保できないときは、同23年の需給計画は立案不能である旨を申し入れた。さらに、業界として切符制の撤廃、公定価格是正の申請をも同時に行い、また食肉業者側からも公定価格引き上げ運動が活発におこされた。

 

同22年10月になって、物価と賃金との同時安定をめざいた新しい物価体系が設定されて、原皮・革などの公定価格も改訂された。ことに原皮は業界の積極的な活動もあずかって一挙に同21年の4倍近くになり、原料需給状態も少しながら安定をみせると同時に、原皮の輸入もようやく将来の輸入再開の見込みも立っにいたった。

 

この頃になって、工業生産力がしだいに回復するとともに、GHQの内部にも復興資材としての原料提供が遅れると、それだけ混乱が長引くとの認識が高まった結果、占領政策が幾分修正されて原皮輸入を許可することになった。

 

ちなみに、業界が貿易庁を通じてGHQに要請した原皮の品種をみると日本経済復興に欠かせない工業用革に使用するステアハイド等の厚物牛皮が大部分で、次いで紡績革に適するキップスキン(中牛皮)、カーフスキン(仔牛皮)と国内で産出されない水牛・緬羊皮などであった。

 

第1回の輸入契約は、同22年(1947)10月23日米国商社インターナショナル・プロダクト・カンパニーと貿易庁との間に、アルゼンチン産の緬羊皮1,000トンおよびハイド200トンが締結され、ここに戦後における原皮輸入の端緒が開かれたと同時に、皮革生産復興の前途も見出されることになった。

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