4.混乱期(昭和50年代中期)
●ブーツが過剰生産、原皮相場の大暴落
昭和54年(1979)前半は前年のブーツブームの余波もあって、商社、タンナー、革問屋、靴メーカー等が原皮および革の先行き高値を予期して一斉に買い走り、一時は投機狂乱の様相となった。ところが冬も終わり、春先になって前年に生産されたブーツが作り過ぎもあって、市場(デパート関係)に相当の数量が在庫となって残っているとの事から、各メーカーとも生産の調整が要望された。
そのような事もあって原皮も次第に買い控えめになったため、5月第1週の92~93セント、円相場で18,000円位をピークに下落が始まった。6月に一時下げ止まった感もあったが、8月には僅か1ヶ月で相場が28%も急落したため業界は騒然となり、大混乱に陥った。
同55年に入っても下落が続き、同年5月にはピーク時の3分の1となる30セントまで下落した。このため業界各分野において相当な被害となり、皮革業界紙によると、日本の業界全体で3,000億円の損害を被ったのではないかとまで言われた。
●第二次オイルショックと経済混乱
おりしも昭和54年1月、イラン政変をきっかけに同年6月のOPEC総会で、1バーレル当たり18~23ドルと大幅な基準原油価格の値上げが決定され、第二次オイルショックの到来となった。
日本経済は大きく援らぎ、石油インフレーションが再燃し、卸売物価は12.9%と上昇し、経常収支も同53年度には119億ドルの黒字であったが、同54年度には一転して139億ドルの赤字となり、円安傾向を招く要因となった。円相場は同51年初め1ドル=300円が同53年11月には170円台まで上がったが、同55年には再び260円まで下がった。
●牛革輸出の好調が支え
こうして国内皮革産業は大変混乱した時期であったが、唯一救ったのが牛革輸出の好調であった。昭和56年から増加期に入り、同57年には443億円、豚革等も含めると604億円の輸出を記録した。
また同57年の日本の原皮総輸入額は871億円で、その内牛皮類は732億円であり、いかに輸出のウェイトが高かったか理解できよう。最盛期には原皮輸入量の3分の1が革として輸出されたとさえ言われた。殊に日本の牛革輸出は、龍野地区と川西地区のソフト革タンナーの尽力に負うところが大きかった。
●(社)日本タンナーズ協会の結成
一方、海外からの日本の皮革市場の開放を求める声も高まってきたこともあって、この難局を阻止するためにも製皮業界の意志統一を計るべく、昭和53年8月全国製革業者を会員とする「日本タンナーズ協会(TCJ)」が発足した。TCJは当初任意団体としてスタートしたが、1年後の同54年5月、社団法人の認可を受けて組織の基盤を強化した。続いて同55年6月には国際タンナーズ協会(ICT)に加入、国際関係の改善に努力することになった。
以来今日まで、国内外業者の様々な問題解決とそのための情報収集に当たるとともに、従来不足していた天然皮革のPRなどにも力を入れているが、結成の動機となった自由化対策が現在でも最大の課題であることに変わりはない。
●兵庫県皮革産業共同組合連合会の設立
また地域にあっては兵庫県下の皮革業界が一つにまとまり、県をはじめ各地域の行政当局に対する窓口を整え、互いの活動の統一化を図り、兵庫県皮革産業の振興と推進を強めることを目的として、姫路・龍野・川西の3市で既に結成されている製革8協同組合が主体となって昭和55年5月、兵庫県皮革産業協同組合連合会が結成された。