3.皮革産業中央会の設立
ところが、昭和23年(1948)2月に、GHQは皮革協会を始めとして、その傘下に結成された業種別全体団体のすべてを閉鎖機関に指定してきた。そして正式には4月1日付で大蔵大臣名で発令さえた。
その結果、皮革協会以下すべての業種別全国組織は、再び改組されることになった。すなわち、皮革協会は皮革産業中央会(岡本茂会長)に、その下部組織として、製革協会(増井諟司)・工革協会(大久保利隆)・日本製靴連合会(宮沢胤勇)となり、4月10日、それらの改組のうえ再出発した。
この製革協会設立について皮革年鑑(昭24)では次の如く述べている。
製革工業会の閉鎖が確定的になったので、東日本関係の製革会社代表者の間で協議の結果、新団体製革協会の設立の機運が高まり、(同23年)2月4日神田の日本大学講堂で発会式を挙行した。この役員として、会長増井諟司、専務理事松木栄二、理事に井上守次、野崎一郎、相良浩造、西村藤右衛門、本田利佐吉、西勝太郎、祝原運一を選んだ。それに引き続いて、西日本中小製革協議会を3月15日、姫路市皮革工協で結成した。幹事会社は次の通りである。
東海皮革 |
畑製革 |
上鈴皮革工業協組 |
広沢皮革 |
高木皮革工業協組 |
三共皮革 |
姫路皮革工業協組 |
中島皮革 |
中国皮革 |
このようにして、産業団体による自粛ないしは限られた資材の割当て配給が行われていたが、極端に逼迫した物資不足の段階では、それでもなお追いつかなかった。
こうした中で「クーポン制」がスタートした。政府発行の割当証明書、購入切符、購入通帳など公文書なしでは入手できない仕組みである。23年度より切符割当制は工業品のトップを切って皮革から実施されることになり、商工省はその実施要領を発表したが、特に注目すべき点は革の種類の中に牛、馬、羊、豚、サメ、鯨のほかに床が指定されたことである。
価格については10月27日に物価庁から革の公定価格が公布された。商業組合は、兼坂隆一課長、土屋正雄事務官、永井正夫係官らに熱心な陳情をくりかえした結果、価格は「製造業者販売価格と販売業者販売価格」の2段階制に決定し、同19年11月の日本皮革統制株式会社による総転廃業以来、皮革販売業者は初めてクーポンによって、統制革を取り扱うことができるようになった。
なお、終戦直後における兵庫県下各地の有力タンナーとしては、次の社名が残っている(皮革名鑑、昭和23年)。
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〔高木〕 |
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泉屋皮革工業所 |
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大藤皮革共同製革所 |
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北中皮革合名会社 |
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共栄皮革株式会社 |
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五興皮革合名会社 |
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三共皮革工業所 |
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三和皮革株式会社 |
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高木白鞣製革株式会社 |
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大一皮革合名会社 |
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高木東部皮革製造所 |
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中橋皮革株式会社 |
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大同皮革株式会社 |
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兵庫県海外引揚者連盟製革工場 |
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播高製革工業所 |
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廣澤皮革合名会社 |
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前田皮革合名会社 |
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合資会社松浦兄弟商会 |
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明和皮革合名会社 |
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〔御着〕 |
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旭皮革株式会社 |
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上田製革所 |
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関西皮革株式会社 |
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神戸皮革産業協同工業所 |
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山陽犬皮株式会社 |
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山陽化工株式会社 |
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昭南皮革株式会社 |
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合名会社千木良兄弟商会 |
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田渕皮革合名会社 |
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東播製革所 |
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日伸皮革工業所 |
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日本展革工業株式会社宝 |
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合名会社畑製革所 |
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宝鈴皮革工業所 |
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売鈴皮革工業所 |
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株式会社水瀬製革所 |
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〔松原〕 |
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互光皮革株式会社 |
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西播皮革株式会社 |
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大平産業株式会社 |
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徳永皮革綴嚢加工共同作業所 |
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中島皮革合同株式会社 |
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〔誉田〕 |
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西岡工業株式会社 |
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〔川西〕 |
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川西皮革工業株式会社 |
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川西製革工業協同組合 |
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平和皮革株式会社 |
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北摂皮革株式会社 |
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明星皮革工業株式会社 |
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〔大阪
その他〕 |
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山陽皮革株式会社 |
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