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5.製革業の衰微
製革業においては昭和6年の戸数に比べ同11年には27.1%増、職工数は44.1%も増加した。かくて各社の成績も次第に好転していった。
原皮の需要状況を日中戦争以前にさかのぼると、外地および海外に80%を依存していた。牛皮だけをみても同11年の牛皮生産数3,248,000枚に対し国内のへい、と殺数は352,000頭にすぎなかったのを見てもわかるわけで、これに馬、豚、羊の原皮を合わせると外地10%、海外70%の比率はほぼ正しいものといえよう。
戦争前の同11年(1936)における原皮輸入先は中国を第1位とし、ついでアメリカであるが数値はその3分の1であった。つぎにアルゼンチン、オーストラリア、満州国の順位であったが、戦争の勃発によってその輸入は止まり、太平洋戦争によって辛うじて需要を充して来たのである。
革製品生産額 |
(千円) |
|
靴 |
鞄 |
馬具 |
調帯 |
袋物 |
計 |
昭和6 |
19,416 |
1,230 |
1,495 |
4,458 |
1,318 |
27,916 |
(100) |
(100) |
(100) |
(100) |
(100) |
(100) |
昭和7 |
19,328 |
2,109 |
1,387 |
4,344 |
2,016 |
29,185 |
(100) |
(171) |
(93) |
(97) |
(153) |
(105) |
昭和8 |
18,826 |
3,486 |
1,745 |
4,339 |
2,401 |
30,797 |
(92) |
(283) |
(117) |
(97) |
(182) |
(110) |
昭和9 |
21,887 |
4,406 |
1,490 |
4,910 |
2,285 |
34,978 |
(113) |
(358) |
(100) |
(110) |
(173) |
(125) |
昭和10 |
24,328 |
4,074 |
1,531 |
4,760 |
1,983 |
36,675 |
(125) |
(331) |
(102) |
(107) |
(150) |
(132) |
昭和11 |
27,478 |
4,682 |
1,864 |
5,233 |
2,530 |
41,784 |
(141) |
(386) |
(125) |
(117) |
(192) |
(149) |
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革靴生産量 |
(千円) |
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総生産高 |
機械 |
製靴(%) |
手縫靴 |
子供・学生靴 |
昭和5 |
2,885 |
1,514 |
(52.5) |
871 |
500 |
昭和6 |
3,756 |
1,577 |
(42.0) |
879 |
1,300 |
昭和7 |
3,778 |
1,474 |
(39.1) |
904 |
1,400 |
昭和8 |
4,058 |
1,638 |
(40.4) |
920 |
1,500 |
昭和9 |
4,005 |
1,671 |
(41.7) |
934 |
1,400 |
昭和10 |
4,732 |
1,776 |
(37.5) |
956 |
2,000 |
昭和11 |
5,034 |
2,076 |
(41.2) |
958 |
2,000 |
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またわが製革業の推移を見ると、同2年には工場数894を示し当時企業的にはかなり盛んであったが、満州事変直前の経済不況のため次第に退歩し同6年には工場数686に激減した。それが同事変後の準戦時態勢への移行で立ち直りをみせ、日中戦争直前には下表のごとく工場数870、その総生産価額は45,945,000円に達した。
年次 |
工場数 |
工員数 |
生産額(千円) |
昭和7 |
684 |
3,460 |
19,986 |
昭和8 |
709 |
3,920 |
26,538 |
昭和9 |
791 |
4,400 |
33,863 |
昭和10 |
780 |
4,418 |
33,569 |
昭和11 |
870 |
4,987 |
45,945 |
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日中戦争前の製革業界はごく小規模のもので工場数870の中工員5人未満のもの80%を示していたが、生産面では残りの20%の工場で約80%を生産していた。
一方日中戦争勃発以来原皮輸入は抑制され、皮革の使用制限が行われることになり、原皮の配給機構の確立が急がれた。中小企業の多くは同12年12月皮革配給機関として日本皮革工業組合連合会を設立し、同13年3月法人格を認められた。当時製革業者800名内外とみられていたが、7月15日までに加入者は651名に達した。原皮消費の割合は日本皮革、山陽皮革、明治皮革、朝鮮皮革、秋元皮革、日中皮革、大阪帯革、新田調帯の8大会社(大日本皮革工業会)が45%、日本皮革工業組合連合会が45%、その他が10%であった。この皮革工連所属は10工業組合であったが、兵庫県下では川西皮革、上鈴製革、高木皮革、松原皮革、誉田皮革の5組合であった。
この2団体は、軍需が拡大し民需が抑制されるに伴って合併し、全国的な統制団体となった。角谷静太郎によると、紆余曲折の末、皮革工連設立の会議は業者の最も多い高木(教福寺)で同14年(1939)6月10日に開かれ、翌15年に8大会社が加入して統合化し、合計25の企業・組合が参加した。
当時の主要地方別生産状況は下記の通りである。
地方別 |
工場別 |
工員数 |
生産額(千円) |
東京 |
105 |
1,387 |
20,158 |
大阪 |
55 |
724 |
8,796 |
兵庫 |
406 |
1,332 |
8,736 |
和歌山 |
68 |
877 |
6,968 |
その他 |
238 |
617 |
1,287 |
計 |
872 |
4,987 |
45,945 |
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同16年(1941)1月、商工省は皮革新体制要綱を発令し、配給部門の一元化を目指し、統制品目を拡大した。同17年(1942)5月に企業整備令が出され、12月に軍命により皮革統制会が発足した。この会員は33社であった。整備令の対象となったのは主として中小企業であった。
戦争中の製革状況を見てみよう。革の生産は、日中戦争の始まった同12年度には 45,090 トン、同13年には 50,665 トン、同14年には 60,028トンに上昇する未曾有の大量生産量に到達した。
しかし戦線の拡大による徴兵の無理と手持原皮の減少、大陸からの輸送難などから次第に陸獣原皮は激減する一方であった。太平洋戦争以前から水産原皮に重点をおいて来たが、それでも膨大な皮革の消耗をカバーすることが出来ず、同19年にはわずか20,910トン以下に下降したのは別表のとうりである。そして終戦時にはついに1万トンを割って生産はわずか6,800トンに落ちてしまった。戦争はこの皮革資源のグラフを一覧しただけでも、いかに無理なものであったかがわかる。
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