4.昭和前期の製革業─産業の崩壊へ
世界大戦によるわが国の好景気は大正7、8年(1918~1919)を頂点として終わり、反動的に不景気、経済の行き詰りが深刻となり、次いで関東大震災、そして昭和4年(1929)にアメリカではじまり、全世界に波及した経済大恐慌の影響が極めて重い不景気となった。失業者の増大、輸出不振、諸物価の下落を来たし、大衆の生活は極度に深刻なものとなった。
この間大資本の経済支配の拡大、政治不安の深化、軍部の台頭に至り、中国への強行外交を展開し、大陸市場独占を狙って爆発したのが同6年(1931)9月の満州事変である。
これを契機として産業界は、インフレと軍事費の膨張などが生産増強の原動力となって長い慢性的不況から脱出した。同7年(1932)1月上海事変、同11年(1936)に2.26事件が続き、同12年7月盧溝橋で日中両軍衝突に端を発した日中戦争が勃発した。この戦時経済体制は「軍需工業動員法」が発令され、「国民徴用令」「大政翼賛会結成」「勤労動員令」が相次いで出された。皮革に関しては6月に皮革の公定価格の実施、7月に「皮革使用制限規制」をはじめ「製品販売価格取締」「同配給規定」も出され、原皮の購入から製品の販売に至るまで完全に戦時体制に組み込まれ、皮革産業の暗黒時代となった。
同15年(1940)7月「奢侈(ししゃ)品等製造販売制限規制」が公布され、絹織をはじめ指輪、ネクタイ、靴などの製造禁止が発せられた。これによって業界は大きな打撃をうけた。
同16年(1941)4月日ソ中立条約締結のあと、12月日本海軍はハワイ真珠湾を空襲、陸軍はマレー半島に上陸を開始して太平洋戦争が勃発した。生活必需物資規制令が公布されて日用品は切符制となり、6大都市で米穀配給通帳制、外食券実施、成人は1日2合3勺(約330グラム)という乏しい食生活を余儀なくされた。かくて戦争一色の状況となった。
この間、軍政下によって皮革、靴工場は国内生産のほか、大陸へ南方各地へ進出させられ、現地で死傷者も多々出た。
ここで皮革業界の動きをまとめてみよう。軍需と深い結びつきをもつ皮革産業はまず満州事変を契機として景気が回復し全国に波及した。革価は日を追って急騰した。そしてこれに刺激されて新規に開業するものが続出し、また概設企業の拡張が図られた。革製品製造業についてみると、同6年(1931)から同11年(1936)に至る6年間で戸数で28%、職工数で39%の増加をみた。