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約7割のシェアを誇る「成牛革」の生産量 兵庫県における製革業の歴史はきわめて古く、弥生時代後期に大陸から帰化人が鞣製技術を伝え、その基礎を築いたとみられています。その後、江戸時代中期に全国的な商品経済の発達と姫路藩の重商政策のもとに大きく発展しました。

兵庫県皮革産業の歩み

(2)明治・大正・昭和前期の皮革産業

2.明治時代─新式製革法の普及拡大

様式の鞣革のはじまりは、明治6年(1873)にアメリカのチャールス・ヘニンクルが東京に製革所を設立したことからといえよう。その際、彈、西村両人が同人から学び、さらにその両人から技術の伝授をうけた谷澤儀右衛門が大阪で事業を開始したのが、大阪地方での始まりである。

以来次第に増加し、陸海軍においては国内産の利用促進を勧め、旧来の鞣革に代わって大いに発達した。製品の種類で見ると、同5年まではいわゆる旧式鞣革(代表的なものが姫路白鞣革)の牛馬鞣革、沓革(くつかわ)、障泥地(あふりじ)、毛抜革、毛付晒皮、晒革(さらしがわ)、爪革、牛馬毛皮等を製造していたが、明治6年の洋式鞣革法の開始と共に障泥地は無くなって、張生地となり、同15年(1882)には油革及び種々の新品種の革を出し、同20年にはギンムキ革・ゴム塗革、同25年には繰綿革を生産するに至った。

天保より文久に至るまでの旧式革の生産数は約3万5,000枚で価格は3万両であったが、慶應年間には一躍7万枚となり、価格は約5万両になったという。更に明治初年になると。生産数7万枚、価格12万円に上がり、同5年には8万枚で20万円、同10年には7万枚で22万円、同15年には同じく7万枚で25万円に上がり、そして同15年において洋式鞣革は約8,000枚で価格が5万円、同30年には旧式7万枚、新式8万3,000枚、前者は価格27万円、後者は更に57万円の巨額に達した。

次に販路について見ると、天保以降明治10年頃に至るまでは旧式鞣革は多くの上等品を東京に、中等品は京都・名古屋へ、下等品は大和河内地方に出荷された。洋式革が出ると、これらの多くは名古屋・京都地方に向かって著しく販路を拡張した。その後25年旧式鞣革はやや回復の兆しを見るにいたり、一方洋式革はドイツやウラジオストック方面に販路を拡大し、同30年頃には中国南部方面に新販路を得ている。

天保より文久に至るまでの製品の価格は、白鞣革1枚80銭、沓革1円、慶應年間では、越鞣革1円、沓革1円20銭、明治15年には越鞣革5円、沓革4円となり、洋式物は象皮11円、茶利革6円、同20年には越鞣革5円50銭、茶利革5円、象皮9円50銭、油革3円50銭、同30年には越鞣革7円50銭、沓革8円50銭、象皮18円、茶利革9円、油革5円50銭、繰綿革8円、ギンムキ革6円であった。
  当時から一大産地であった高木地区は戸数は500軒を数え、人口は3,000人に及んだ。村民の全部は老若男女の別なく、製革業に関わったという。

高木村において生産される鞣革は輸出向け薄物を主とし、これに次ぐのは厚物である。高木村は他の鞣革生産地に比べ古くより交通の便がよく、更に四季水利の便がよい市川を控え、これに沿った傾斜する広大な空き地をもつ等、皮革製造上における自然条件に恵まれていた。
  なお御着地区も各種鞣革を生産し、その内主となるものはいわゆる張生地である。しかし品質並びに数量において高木産に比べて見劣りした。水利の便を欠き、乾燥場に使える空き地が乏しい等、自然的要素に欠ける為、膠(にかわ)その他の各種革の製造を試みる会社は多数倒産もしたという。

また松原地区は専ら張生地を生産した。同地区は営業組織及び製造実績においての新しい取り組みがみられ、労使の協力や機械的生産も計り、生産費の節にも成功した。

伝統的な白なめし革は薄乳白色・柔軟で極めて高尚優美であり、植物タンニン鞣革、あるいはクロム鞣革等がなかった時代にはわが国唯一の革として各方面に広く使用されたが、各種洋式鞣革の普及によって圧倒され、その需要の範囲も著しく縮小され、僅かに煙草入れ、文房具、その他袋物、もしくは武道具等に使用されるにとどまった。白なめし革で輸出される革は優良品のみで、欧米諸国における用途は婦女子用帯革、上靴の甲革、紐革、自動車用タイヤ、椅子張、家具用、軍楽隊礼装用前掛、職工前掛の部分等に使用された。

また張生地と称するものは、下級原料皮の利用法として生じたものであって、一見薄物に似ている。用途も僅かに高価なる薄物の代用品として生命を保つにすぎなかったといわれている。

また、その厚物は強靭さを生かした紐革あるいは綴革(とじかわ)として各工場で使用され、機械工業の発達に伴い、その需要は拡大したという。

こうした変遷を経過しながら、各地に製革企業の設立が相次いだ。その代表的なものが明治40年(1907)の日本皮革株式会社(現在のニッピ)、同42年姫路の北中皮革合名会社、同44年の明治製革株式会社(同じくメルクス)、山陽皮革株式会社(同じく山陽)などであった。製革業は主として軍需用品製造のため大いに盛大となり、特に同27,8年(1894~1895)の日清戦争、同37,8年(1904~1905)の日露戦争による需要で製革業が著しく刺激された。

なお、この明治時代に導入された主な機械設備には、次のようなものがあった。

●石灰漬作業
脱毛機(明治38,9年頃)
裏漉機(同25年頃)
ベルトナイフ機(同43,4年頃)
パドル(同35,6年)
●革の乾燥および仕上
あなとり機(明治38年頃)
固形タンニン洗浄機(同40年)
表面洗浄押しのし機(同38,9年)
底革圧延ロール(同44,5年)
振子状ロール(同37,8年頃)
循環銀洗い及び押し延し機(同37年頃)
●薄物用
しぼつけ機(明治45年)
型押機(同上)
へらがけ機(同40年頃)
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