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約7割のシェアを誇る「成牛革」の生産量 兵庫県における製革業の歴史はきわめて古く、弥生時代後期に大陸から帰化人が鞣製技術を伝え、その基礎を築いたとみられています。その後、江戸時代中期に全国的な商品経済の発達と姫路藩の重商政策のもとに大きく発展しました。

兵庫県皮革産業の歩み

(1)皮革産業の始まり 播州白鞣革

6.播州の製革業─江戸時代

徳川中期以降の全国的な商品経済の発展に支えられて、皮革業もまた全国的な商品流通の中に組み入れられ、その発展を遂げつつあった。

皮革産業沿革史(上)によると、播州地方の製革業について次のように述べている。

当時、播州姫路の「白靼革(しろなめしがわ)」やその「皮細工物」は全国的な需要をもった商品となり、姫路、大阪、江戸、尾張等の商人の手を通じて全国に販売されていた。これらの商品には、主に武具、文庫、袋物があり、他の足駄(高い歯の下駄)の花緒、向掛(つまがけ、またはつまかわ。正しくは爪革と書く。下駄の先のカバー)などがあり、また加工原料としての「白靼革」はそのままの形で多くの市場をもっていた。

姫路藩における近世の皮革業は、すでに地域的な分業が行われていた。もちろん、これは封建社会の身分制支配と深いつながりをもっていたことはいうまでもない。それは近世の身分制度が確立される時期に、領主の権力で「上から」設置されたものが、やがて商品経済の発展につれて明確な分業地域として定着したと思われる。鞣製部門は、姫路の東側を流れる市川流域をはじめ、姫路の西側を流れる揖保川流域に沿った地域に、そして加工部門は姫路城下町の中二階町から東二階町にかけて展開された。

前者の鞣製部門は、いわゆる「白靼革」の製革であって、市川流域の飾磨郡高木村、四郷村をはじめ、揖保川流域の揖保郡沢田、仙正、松原などで行われた。中でも高木村は「白靼革」製革の中心地であり、その製品は他村のものに比べてはるかに優れていた。製革技術の未発達な当時の段階では、自然条件が生産を左右する大きな原因となったのは当然であったが、高木村が「白靼革」の製革中心地であったのは、市川の水質とその他の自然条件に恵まれていたからである。


姫路革ぞうりの製造 昭44

後者の加工部門は、箱類、文庫類、武具、馬具類、稽古道具類などの製造が、主として城下町の中二階町から東二階町にかけて、軒並に行われていた。そのため、当時参勤交代の西国大名は、皮革特有の臭気のためにこの辺をさけて通ったといわれている。これらの店の中には、一軒で十数藩の大名を相手に商売するのもあったほどである。

ところで、城下町以外の在郷でも「革細工」が行われていた。すなわち、当時の西国大名が参勤交代の折に拠点とした室津(播磨灘に面した小港)は、これらの武士を相手とする土産品として、主に煙草入れ、向掛(つまがけ)、花緒などの製造販売の店舗が軒を並べ、更に、江戸、尾張、大阪との取引も多く、隆盛を極めたといわれている。この室津では、主に揖保川流域の仙正、沢田、松原、龍野などで造られた牛革が用いられていた。また先の市川流域の御着、四郷村上鈴などでは、高木村の白靼革ほど上質ではなかったが「張木地」と称して、花緒や伊勢合羽が作られ、街道筋で売られたという。


姫路白鞣革関係の
高田家文書(江戸時代末期)

享保16年(1731)11月、前橋城主となった酒井忠恭は、天和以来ようやく窮乏化した酒井家の財政整理と復興を計るために、特に幕府に請願して姫路移封を実現しようとした。この願いは幕府の許可するところとなり、寛延2年(1749)1月、播磨国神東、神西、加東、加西、飾東、飾西、加古、印南、揖東、揖西10郡のうち、15万石を与えられて姫路城主となった。しかし、その後の相次ぐ水害のため、彼の意図も空しく、姫路藩の財政は窮乏をきたした。

この藩財政窮乏は家臣団に対する5割の「上げ米」となって転嫁されたが、それは藩財政支出の5分の1にも当たらぬほどのものであった。そして「藩幣日に竭き」、藩主の公的な勤めすら行き届かず、一族の協力をもってしても、藩主父子の生計費、諸客の接待費など、わずかに3万5,000俵余を充てるのに苦心するといった有り様であった。そこで、藩は更に用達商人や領内有志に対して、「積金」=御用金を命じて危機を回避しようとしたが、江戸、大阪の商人からの負債の利子に追われ、新たに高利で臨時の借入れをするに至り、利子は雪だるま式に増大し、ますます藩の財政は危機的な様相を深めるばかりであった。

領内の百姓町人に対する倹約令の指示などが相次いで出されたが、倹約するだけの余裕もなく、最低の生活を強制されていた民衆にとっては、ほとんど無意味であった。この間にも文化4年(1807)には、負債総額が73万両に達し、藩財政の危機はその頂点に達したのである。
かくして3代目藩主忠道は「日夜懊悩(おうのう)の末」文化5年(1808)12月、家老河井隼之助を江戸より召還、財政革命を命じ、一切の施策を一任し、ここに姫路藩の財政危機に対応する諸政策が展開することになった。

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