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姫路の菓子作り
江戸時代から続く、姫路の菓子作りについて学びましょう。

姫路神社 河合寸翁像町人の力が強くなってきた江戸時代後半は、各藩とも大幅な財政赤字に苦しんでいました。姫路藩も73万両(現在の価値にして約440億円)という負債を抱え、時の藩主酒井忠道は文化5年(1808)、当時の家老であった河合寸翁に財政再建を命じました。

寸翁は領民に米を無利子で貸し与えたり、低金利で生活資金を融資したりという画期的な金融政策を行いました。また、いざというときのために共有の米を保存する固寧倉(こねいそう)を設けたりもしました。そして、姫路城下の木綿商人と共に木綿会所を作り、木綿を「玉川さらし」という姫路藩の特産品として、大坂(大阪)の商人を通さず、直接江戸で販売する方法を考案し、財政の立て直しを図りました。

寸翁神社の由緒また、この河合寸翁が藩主と同じように茶人であったことから、産業振興の一環として和菓子作りを奨励し、和菓子作りを修行させるために職人を江戸、京都まで派遣しました。この時、職人達の持ち帰った技術が姫路の菓子作りの原点となったそうです。また、姫路銘菓である「玉椿」の名付け親も寸翁です。
寸翁は長崎の出島にも職人を派遣し、南蛮から伝わった油菓子作りの習得を命じました。技術を身につけた職人たちは姫路に戻り、油菓子の生産をはじめました。
こうして河合寸翁は、27年かけて負債を全て返し終えました。

さらに寸翁は姫路の東に位置する仁寿山に仁寿山黌(じんじゅさんこう)という私塾を開きました。姫路藩では当時、藩校の好古堂が藩の人材を養成していましたが、仁寿山黌では頼山陽(らいさんよう)など著名な学者を講師に招き、領民一人一人を尊重し、国に役立つ人材の養成を目指しました。そんな姫路の名家老河合寸翁は姫路神社境内にある寸翁神社に祀られ、今でも姫路市民から慕われています。

姫路藩の財政赤字を救い、菓子作りも広めた名家老 名家老 河合寸翁