1912 (大正元)年 |
この年、マッチ総生産量106万マッチトン、内輸出量が90万マッチトンとなり、生産量の85%が輸出される。 |
1914 (大正3)年 |
4月、姫路で田中竹次が「田中燐寸製造所」を設立。現在は「田中燐寸株式会社」として操業。 |
硫化燐マッチが日本でも製造され、ボンベイ、カルカッタ方面へ輸出を開始。 |
1916 (大正5)年 |
9月、瀧川辨三(たきがわべんぞう)は、自ら経営する清燧社(せいすいしゃ)と良燧合資会社を合同し「瀧川燐寸株式会社」を設立。 |
金子直吉、鈴木商店の事業の一つとして「帝国燐寸株式会社」を設立し、マッチ業界に乗りだすが、翌年、瀧川と合同提携。 |
この年、輸出高が2000万円を突破し、2228万円に達する。 |
1917 (大正6)年 |
1月、瀧川燐寸株式会社は鈴木商店と提携して「東洋燐寸株式会社」に改組。 |
仁川に「朝鮮燐寸株式会社」、天津、奉天(現・瀋陽)には「東亜燐寸株式会社」が設立。 |
1918 (大正7)年 |
1月、東洋燐寸株式会社の瀧川儀作が兵庫県下の28工場を統合して、「帝国燐寸株式会社」を設立。 |
2月、第1次大戦参戦で得た租借地青島に瀧川儀作(ぎさく)が「青島燐寸株式会社」を設立。 |
11月、公益社を中心とした日本紙軸燐寸製造合資会社、諫山工場、東工場、山田工場等が合同し、合計12工場の「中央燐寸株式会社」を設立。 |
12月、岡山で「中外燐寸株式会社」が設立。現在も操業。 |
1919 (大正8)年 |
姫路で岡田兼治が「岡田燐寸製造所」を設立。 |
この年、輸出高が4000万円を突破し、4198万円に達し、輸出高最高記録を樹立。 |
1920 (大正9)年 |
6月、アメリカ、ダイヤモンド社が東洋、日本、帝国、中央燐寸株式会社との日米燐寸会社合同計画を提案するが発展せずに終止。 |
1922 (大正11)年 |
6月、黄りんマッチ製造、輸出禁止。 |
1923 (大正12)年 |
黄りんマッチ製造禁止により、以後、大阪、名古屋の黄りんマッチ工場が全滅。 |
12月、「日東社燐寸製造所」が設立。現在は「株式会社日東社」として創業。4月、清水 誠、東京芝三田四国町、吉井友実卿別邸に仮工場を設けマッチ試作に成功し、最初の製品マッチ2ダースを宮内省へ献上。大阪の小野久兵衛、小杉又三郎が後に「昌燧社(しょうすいしゃ)」とするマッチ工場を設立。大阪におけるマッチ工場の嚆矢。 |
1924 (大正13)年 |
スウェーデン燐寸系、「インターナショナル・マッチ・コーポレーション」が日本燐寸製造株式会社の株式過半数を買収。 |
この頃から日本独自の発明品、徳用型家庭マッチが実用化され、販売も始まる。 |
1925 (大正14)年 |
1月12日、日本のマッチ王、瀧川辨三、逝去、享年73歳。 |
4月、スウェーデン燐寸系「インターナショナル・マッチ・コーポレーション」が小林燐寸株式会社と資本提携。 |
9月、スウェーデン燐寸系「インターナショナル・マッチ・コーポレーション」が公益社と資本提携し「株式会社公益社」を組織。 |
1926 (大正15)年 |
日本燐寸同業組合聯合会を「日本燐寸工業組合」に改組。 |
「燐寸共同販売組合」が発足。 |