1827年に英国の薬剤師ジョンウォーカー(Jone Walker)によって、硫化アンチモニー、塩酸カリおよびアラビアゴム糊を混ぜて、頭薬にし、硫黄をかぶせた軸木を2枚の硝子粉紙の間にはさみ軽く摩擦して発火させる方法を考え出しました。これがマッチの始まりと言われています。初期のものは、簡単には発火しないうえ、発火しても軸木に着火しにくいものでした。
1831年にフランスの「ソーリア」と「カメレール」によって、どこで擦っても容易に発火するマッチが開発されました。ただ、黄燐マッチは毒性が強く、殺人や自殺などに使用された事もあっりました。さらに、移動中の摩擦や衝撃による火災事故も頻発したため、より安全なマッチの開発が期待されていました。
1850年前後から赤燐を用いたマッチの開発が、ヨーロッパ各国ですすめられていましたが、1852年、スウェーデンにあったヨンコピング社のルンドストレームがリンを含まない頭薬を点着した軸木を小箱に納め、その箱の側面に赤燐を側薬として塗布
した分離型の「安全マッチ」を発明し、特許を得ました。そして彼は1855年、純粋な
赤燐を用いた「スウェーデン式 安全マッチ」を製造し広く販売しました。これ以後、ス
ウェーデンは世界のマッチ工業の首位となっていきました。
安全マッチが普及していく中で、どこで擦っても発火した黄燐マッチの便利性を根強く要求する声もありました。
1864年、フランスのルモアンが毒性の少ない「硫化リン」を発見、その後1898年、フランス専売公社のカーエンとサベーヌが硫化リンを使った摩擦マッチを作り、特許を得ました。イギリスは1900年、フランスの許可を得て「硫化燐マッチ」の生産を始めました。アメリカでは黄燐マッチの毒性などについての認識が高まる中でも、その需要は一向に衰えず国内生産はあいかわらず継続しました。
しかし1920年、ワシントン国際労働会議の決議により、1922年6月限りで黄燐マッチの国内製造も全面禁止され、それに代わって「硫化燐マッチ」が作られるようになりました。 西部劇の中で、カウボーイが靴の裏やベルトのバックルに擦って点火し、喫煙するシーンによく見られる「硫化燐マッチ」の生産が本格化しました。 |