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姫路のマッチ作り 西播磨地域の地場産業 マッチづくりについて学びましょう。
 
日本のマッチと西播地域
マッチの歴史
マッチ年鑑
マッチの出来るまで
マッチの雑学

マッチ年鑑-明治-

1837 (天保8)年 宇田川榕庵(ようあん)が欧州の文献を参考にマッチについての記述もある化学書『舎密開宗(せみかいしゅう)』を著す。
1839 (天保10)年 高松藩士、久米通賢(くめつうけん)栄左衛門がドンドロ附木、吹弾子(雷汞(らいこう)マッチ)を発明。史実としてはわが国最初の国産マッチの発明。
1845 (弘化2)年 12月25日、燐寸(マッチ)開祖、清水 誠(しみず まこと)、金沢に生れる。
1847 (弘化4)年 兵庫県加古郡横谷村(現在の三田市)出身の蘭学者、川本幸民(かわもと こうみん)が黄りんを使ったマッチの試作に成功。
1848 (嘉永元)年 兵庫県の蘭学者、川本幸民(かわもと こうみん)が燐を用いて黄りんマッチを試作。
1873 (明治6)年 岩手県盛岡藩で士族授産施策のマッチ製造所「葆光社(ほうこうしゃ)」が設立。わが国最初のマッチ工場として明治18年まで操業。
1874 (明治7)年 函館懲役場で囚人であった玉林治右衛門がマッチの製造を試み、燐を製出。のちにマッチ製造を開始。
1875 (明治8)年 横浜弁天通りの持丸幸助がアメリカから機械を取り寄せ、平沼にマッチ製造所を設立。実はブラウァーの戸部工場であったとの説も有り。
4月、清水 誠、東京芝三田四国町、吉井友実卿別邸に仮工場を設けマッチ試作に成功し、最初の製品マッチ2ダースを宮内省へ献上。
1876 (明治9)年 9月、清水 誠、東京本所柳原町にて「新燧社(しんすいしゃ)」設立。黄りんマッチの本格的製造を開始。
1878(明治11)年 7月、清水 誠は大蔵卿大隈重信の依頼で糖業研究のため再渡欧中、再度マッチの研究に入り、安全マッチの製造法視察のためスェーデン、イェンシェピング工場を見学。
1879(明治12)年 4月、清水 誠はスウェーデンから帰国後、渡欧中に全焼した工場を再建し、安全マッチの生産を始める。
清水 誠が全国唐物商を網羅し「開興商社」を設立。国産マッチの販売機関とする。
1880(明治13)年 士族授産施策のマッチ製造所として兵庫県姫路藩「就光社」
が設立。
1882(明治15)年 マッチ業者の乱立、対抗が過激さを増し、輸出量急落。第1期マッチ産業の苦難時代。
国内販売による安値競争激化防止のため、大阪で仲間規約を設ける。これが大阪における同業組合のはじまり。
1883(明治16)年 粗悪品の輸出が激増し、輸出不振の弊害、深刻化。
1885(明治18)年 2月、姫路の高島米吉が「高島燐寸製造所」を設立。
黄りんの毒性が問題となり、黄りんマッチ製造が一旦禁止。
1887(明治20)年 マッチ産業、第1期不振時代、脱却。
1888(明治21)年 9月、清水 誠が連軸マッチ(ブックマッチ)の特許取得(第556号摺附木)。ブックマッチの嚆矢。
12月、新燧社、倒産。清水 誠は金沢に隠退。
1889(明治22)年 マッチ輸出改善傾向。香港、シンガポール、インド、ラングーン、シドニーへ輸出。
広駿源事件が起こる。治外法権を利用した清商・広駿源による売行良好の類似商標乱造に対する商標紛議。
12月20日、直木マッチの象ベストが商標登録されるが、その後26種の類似商標が出回る事態となる。
1890(明治23)年 フランス領インドシナ、サイゴンで清燧社の桃印商標が勝手に流用される本邦燐寸商標侵害事件が突発。
第3回内国勧業博覧会に於いて、桃山日進社、大広社、製燧社、赤松館、東洋館、公業社などが受賞。
8月、黄りんマッチの日本での製造解禁。
1895(明治28)年 第4回内国勧業博覧会に於いて、鳴行社、明治社、奨拡社、第二明治社、開栄株式会社が受賞。なかでも播磨幸七の鳴行社は、インプル軸を使用したことで有功一等賞を獲得。清水 誠が審査官。
1896(明治29)年 日本は清国の黄りんマッチ市場の75%を占有するまでに発展。
1897(明治30)年 清水 誠、尼崎にマッチ工場「旭燧館」の設立を申請し、新燐寸軸排列機の特許も得てマッチ事業へ貢献を果たす。
1898 (明治31)年 この頃から摺附木(すりつけぎ)の名称は用いず、燐寸(マッチ)の表記とした。但し、商標法での類別名は、明治42年まで摺附木の名称。
1899 (明治32)年 2月8日、清水 誠、逝去、享年数えで55歳。8月、東京亀戸天神境内に「紀功碑」建立。
1900 (明治33)年 大阪、公益社の井上貞治郎が細軸(1.5mm軸)マッチを考案。安全マッチ1箱の軸木入本数を60本から100〜120本までにする。
1906 (明治39)年 9月、金沢卯辰山公園内に「清水 誠先生顕彰碑」建立。