兵庫県の伝統的工芸品である姫路仏壇の製作には塗師、彫り師、錺金具師など多くの職人が携わり、その腕は絢爛豪華な屋台作りにも生かされているが、大西さんは仏壇彫刻と屋台彫刻のいずれにも卓越した技を見せる「彫りの匠」である。
子どもの頃から木切れで遊ぶのが好きだった大西さんだが、木と向かい合うようになったのは、中学校時代に部活で工作部に入ったことがきっかけ。
顧問の先生は最新の木工機械を導入して生徒たちに色々な作品を作らせるような熱心な人で、大西さんは3年生の時に「両面まな板」を製作。
これがコンクールで商工会議所会頭賞に輝き、新聞でも報道。
これがある木工所の目に止まり、卒業と同時にスカウトされたのだという。
「木工そのものより、部室に掲げてあったレリーフ彫刻の額との出会いの方が大きかった。漠然とエエなあと思い続けて、いつかはああいうものを彫りたいと思った。あれがこの道に入る一番のきっかけやったね」と、大西さんは懐かしそうに振り返る。
木工所に就職はしたものの、大西さんの腰は落ち着かなかった。
「ちょっとやると『こんなもんかい』と思ってしまって、もっと違う世界を知りたくなる。性分なんやろね」
大西さんはそう言って苦笑するが、就職した木工所を辞め、神社や中国人向けの額などを作る神戸の製作所に転職。
やがてそれにも飽き足らなくなり、大阪の欄間作りの工房に移り、さらには京都の仏師の世界に飛び込んだ。
仏像はこれまでの彫りでは経験しなかった立体の世界で、それなりに面白かったそうだが、仏師は歴然とした階級社会で、下働きの職人たちの「宵越しの金は持たない」的な感覚に馴染むことができず、昭和34年、22歳の時に帰郷。
中学を卒業して6年がたっていた。
「『技術がついたらそれで良し』という思いと、『いやいやまだまだ』という思いの間で悶々としてたんやね。それで姫路に帰って考え直そうと。今から思うとあの6年間は無駄ではなかったし、武者修行みたいなもんやった」
帰郷した大西さんは1年間、屋台彫刻師のもとで修業を重ねて独立。
本当は屋台彫刻をやりたかったが、当時は祭りが衰退していて屋台の仕事は少なく、仏壇彫刻に励まざるを得なかった。
そんな中、昭和38年に念願の屋台の仕事を引き受け、露盤の彫刻を手がけた。
出来映えは賞賛されたが、2年目に木がぽろぽろと落ちてしまった。
練り子たちが「胴突き」という荒々しい方式で屋台を担ぐために起こった現象だが、祭りの関係者と大喧嘩になり、それがきっかけで一度は屋台彫刻から身を引いた。
時は流れて、平成4年に再び屋台彫刻を頼まれた。
一度は断ったが精魂を傾けて彫ると、評判が評判を呼んで次々と仕事が舞い込むようになり、今では仏壇彫刻と屋台彫刻が大西さんの2枚看板になっている。
仏壇彫刻も屋台彫刻も、まず絵柄を起こし、彫る木に転写し、粗彫り、小なぐり、仕上げ彫りと徐々に細かく彫っていくという工程は同じで、「難しいけど細かいところほど楽しい」のも同じだが、返ってくる反響が違うと大西さんは語る。
お客さんに喜ばれても仏壇は1軒に1つ。
対する屋台は多くの祭り関係者や観客の目に止まる。
入魂式で屋台が披露され、見守る人々の間からどよめきが起こると「寒イボがたつ」という。
屋台の製作に当たった人間は、ハッピを着て参加するのが習わしだが、大西さんは着用しない。
製作に関係した人間だと分かってしまうと「評価が止まってしまう」。
つまり一般の人たちの声、本音が聞こえてこないからだという。
仕事をする上で大切なのは集中力と、それが生み出せる環境だと大西さんは話す。
自宅にほど近い仕事場で作品と向かい合っているが、根の詰める仕事はやはり集中できる夜間に行うことが多く、昼間でも忙しい時はシャッターを下ろし、外部と隔絶するという。
仕事場には「聴くと落ち着く」という津軽三味線の音色がいつも響きわたり、南側には大西さんが自ら作庭したという庭が広がっている。
植木の剪定なども自分でやっているそうで「細かい仕事で目が疲れると、ぼんやりと緑を見るんですわ」と笑う。
とても73歳とは思えない若々しさ。
今もかくしゃくと現役を続けられているのは、脈々と流れる職人気質と、こうした気配りのせいなのかも知れない。
厚生労働省の「現代の名工」にも選ばれた職人の中の職人である。