「姫路城の美しさに魅せられこの道に」

漆喰左官(山脇組 工事主任)柴田 正樹

高校卒業後、東京から姫路へ

柴田さんが漆喰左官の道を志すようになったのは、高校生の時に姫路城が世界文化遺産に登録され、後に師匠となる田淵靖さんがNHKの番組で城の漆喰壁を塗っている姿を見たのがきっかけ。

もともとお城が大好きで、「漠然とお城に携わる仕事をしたい」と考えていた柴田さんはすぐに電話で弟子入りを志願。

「やる気があるんやったら一度来てみれば」との返事をもらって姫路を訪れ、田淵さんの勤務先である山脇組の先代社長に引き合わされ、高校卒業後に入社することになったという。

柴田さんは東京・墨田区の生まれ。

親元を離れ、見ず知らずの姫路の地に来ることには勇気もいったに違いないが、「あの時やっていれば…と後悔したくなかった」と当時を振り返る。

師匠の田淵さんと二人三脚で

2年半前に惜しくも亡くなった師匠の田淵さんは当時50歳代半ば。

若い頃は厳しいことで知られていたそうだが、「当時の会社には若い職人さんがいなかったので、(田淵さんには)後継者を育てたいという強い思いがあったんじゃないでしょうか」ということで、それこそ懇切丁寧に教えを受けたという。

「古い漆喰壁を落として、それを剥がしながら、目の前で見て感じ取ったことをポツリポツリと話してくださるんです。

(漆喰壁が)ボロボロ落ちるのは中の土の状態がこうなっているからだとか、どういう風に直していったらいいかとかを語り口調で。

それを僕は聞き逃さないようにして、家に帰ってからノートに取り、1つ1つ覚えていったんです」

漆喰壁の塗り方だけでなく、壁が傷む理由や材料となる漆喰の作り方などを、現場でそれこそ「二人三脚で仕事をしながら」教えてもらったそうで、「ほら、山本五十六の言葉にあるでしょう?やってみせ、言ってきかせって……。田淵さんの指導方法はあんな感じだったかもしれないです」

山本五十六は太平洋戦争当時の連合艦隊司令長官。

その言は「やってみせ、言ってきかせて、させてみて、誉めてやらなば人は動かじ」で、「厳しいところもありましたけど、よく誉めてももらいました」と柴田さんも懐かしそうに。

奥が深く、終わりのない道

田淵さんが亡くなった今、柴田さんはその後増えた若手職人を指導する立場にあるが、道を究めるまでにはまだまだ遠いという。

大小さまざまなコテの使い方、壁や屋根の目地、懸魚など場所によって違う塗り方、石灰と麻スサ、フノリを配合する材料(漆喰)の作り方など「全部が難しい」そうで、
「気候や下地の状態、陽当たりや風当たりの加減などによって材料の配合も変わってくるし、漆喰を寝かす日にちも違ってくるので、うまくいった時の配合をノートに控えています。
塗るのも夏と冬とか、その時の天候によって収まりが違ってくるから難しいし、上辺だけきれいに塗ってもダメで、下塗り、中塗りもきちんとやっておかないといけない。
別に心配性ってわけでもないんですが、塗り終えてからもこれで良かったのかといつも心配しています」
と、苦笑いする。

夢は大天守の懸魚の仕上げ

1年の半分以上は姫路城で仕事をしているという柴田さんを取材をしたのは姫路城西の丸の長局。

百間廊下の窓の格子の漆喰塗りや櫓の屋根に漆喰の目地を施す作業中だったが、夢は?と質問すると、「これは田淵さんの夢でもあったんですが、できれば大天守の大千鳥の懸魚を仕上げたいですね」と。

姫路城では大天守の保存修理事業が始まったばかりで、可能性は大いにありそうだが、「いえ、こればかりはまだ分かりません」と口を濁しながらも、「できれば若い人たちにも破風や懸魚といった所を塗れる機会を作りたいです。仕事で迷いが出た時や落ち込んだ時に、大天守を見上げて、あれは俺がやった仕事だと思えたら励みにもなるでしょうから」と、若きリーダーならではの言葉が口をつく。

「ずっとお城に携われる仕事ができる。毎年、この仕事をさせてもらえる環境にいられることが一番の喜びです」と最後は力強く語ってくれたが、姫路城の美しさに魅せられて異郷の地に飛び込んできた柴田さんを温かく見守ってきた、天国にいる田淵さんに聞かせてあげたい言葉でもあった。

Copyright(C) 姫路発 職人と匠の技 All rights reserved.